カテゴリー「近況報告」の記事
同人の近況報告
澪27号に向けて
次号の映画評論は『にっぽん泥棒物語』を書くつもりだ。この映画は喜劇仕立てなのだが、それはあくまで「衣」であって、中身は「社会批判」になっていると思う。そのバランスが見ていてうまく描けていると思うので、今回取り上げたい。
日本が、未だGHQに統治されていた昭和24年に起きた不可思議な事件「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」中の「松川事件」をドラマに絡めている。それらのミステリーな事件は国鉄(現JR)の駅や線路上で、何者かにより引き起こされた轢死、暴走、転覆事故である。それによりけが人や死者も多数出ており、冤罪により人生を大きく狂わされた人々も存在する。
この作品はその点をセミドキュメンタリータッチで描きつつも、肩の凝らない娯楽作品として第一級の出来栄えになっている。名監督山本薩夫の面目躍如だと言える。主演の三国連太郎も泥棒役を力まずに軽妙に演じている。刑事役の伊藤雄之助の妙演も光る。
私は構成主義者だ。従い、論文でも例外ではなく構成が決まるまでは一文字も原稿に書き入れない。これは長年、出版社の編集担当者から締め切りを迫られ、時間に追われ、苦しんだ苦い経験がそうさせている。
今は「松川事件」の資料を読んでいる段階である。松本清張の『黒い霧』に事件の詳細や考察が書かれており、興味深く読んでいる最中だ。実はこの段階が一番楽しい。それから構成を組むのである。ところが書き始めると・・・!
(石渡)
澪 合評会
澪恒例の合評会を行った。いつもと違うのは、同人のほかに私のエッセー教室の生徒さんを特別に招いたことだ。彼は主に短編小説の書き方を学びに教室に通ってきている若者で、これからの人だ。私の方から彼に「澪の合評会があるから来ないか?」と誘い、実現した。
彼の実力からすると厳しすぎる批評もあったと思われたが、創作には「厳しさ」や「忍耐力」も必要とされる。同人たちの愛のムチにへこまずに、逃げずに、立ち向かってほしい。
彼の発奮を望んでいる。
(石渡)
澪 26号 合評会 - 若い感性
前出の同人の衛藤氏と共に、澪26号の合評会に出席しました。石渡先生のエッセー教室の生徒さんの作品を読ませて頂いて、私が20歳だった頃はどう逆立ちしても書けない(今でもそうですが)ストーリー、会話のテンポ、文章の確かさに舌を巻きました。
ストレートで、読後感が爽やかで、やはりこの年代の人の感性でなければ書けないな、と思わされる作品でした。
(ん)
26号の合評会を開催しました!
2025年10月13日(月)は恒例の合評会の日でした。場所はもちろん、希望ヶ丘地区センターです。わたしは、静岡県御殿場市から毎回通っているのですが、もうカーナビがなくても地区センターまで来られるようになりました。さすがに道を憶えてしまったのです。と同時に、いままでぼんやりとしかイメージできなかった横浜市の区画(という言い方が適切かは不明ですが)も、わりと明瞭に想起できるようになりました。
それはつまり地図が描けるということ。
では、地図が頭のなかで描けるとなにが変わるかというと、点から点の距離感がわかり、それに併せて、距離に応じた所要時間も計算できるようになるのです。そのおかげで、とっても気分がラクになりました。
そんな感じ(?)で、無事に地区センターに到着し、合評会がスタートしました。今回は、同人の柏山さんが欠席ということでしたが、編集長である石渡さんが講師を務めるエッセイ教室の生徒が特別に参加されました。彼は自作の小説を持参されていました。合評会のついでに、その小説を我々同人が読み、感想や意見を述べる、という“もう一つの合評会”を催した、というワケです。
彼は二十歳の青年だったのですが、私は、彼の作品の内容云々よりも“二十歳で一遍の小説を最後まで書き上げた”という、その揺るぎない事実に感服しました。これは、なかなかできることではありません。自分の過去を思い出してみると、二十歳のときに、小説を書こうなんて思いもしなかったし、仮に書いていたとしても、最後まで書ききれていないはずです。彼は、創作し、それを他人に読ませたのです。彼の、このクリエイティブな一連の営みは、とてつもない財産になると確信します。すばらしい。
そんな感じ(二回目)で、長くなったので、拙作に対する感想は飛ばしますが、どんな書き手にも門戸を広げて、その功績を讃え、かつどんな作品でも皆で深く味わうことができる……それが文芸同人誌『澪』の合評会だと、これまた再認識した次第です。新たな書き手を待っています!
(衛藤)
Photograph 「Rainy season」
現在26号に向けて映画評論の原稿を書いている。今回は安部公房作『砂の女』である。
作者は原作と同時に脚本も書いている。さて、取りかかろうとしたら、なぜだか急にエッセーの構想が浮かび、書きだしてしまった。われながら自分の右脳はどういう働きをしているのか、はなはだ疑問に思う。『砂の女』は寓話性の強い作品であるが、小説の構成が論理的になっているので、最後まで読者を引っ張れると感じた。作者は『他人の顔』や『燃えつきた地図』でも同じ手法を用いている。『砂の女』は前衛的だと決めつける評論家が多いが、はたして私にはそうは思えない。作者の粘着性の強い近視眼的な世界観に息が詰まる思いがするし、さらに、狭い空間に閉じこもる男女のやり取りに少なからず閉所恐怖症を感じたが、映画ではカメラのロングショット(遠景)がスパッと効いていて救われる思いがした。
映像はときにより文学を超える力があると思った。
(石渡)
25号の構想(フォトエッセー)
澪25号のフォトエッセーの構想を考えなければなりません。
今回はこれまで続けて来たインド物の他に、私の所属している写真倶楽部の先生(実は澪の編集長もされている)からいくつか示唆を頂いて、少し、いや大分毛色の変わったものをと考えています。
一つは、写真の疑似的な「ソラリゼーション」と言う技法を使って、ホラーSFのフォトエッセイ (= ホラーSFフォトストーリーとでもいうのが適切かも知れない)を構成するか、もう一つはこれも私が11月の写真展で出展した写真に題材を取って、自分の少年期の内面的な迷い、来し方を表現するようなものを構成するかです。
両方について進めていますが、後者はかなりストーリーと写真の材料に吟味が必要で、長期戦となって25号に間に合わないか、成立しないかのどちらかになりそうです。
前者(ホラーSFフォトストーリー)は以前から温めていたものですが、かなり思い切った書きっぷりになり、「澪」のテイストにマッチするか、事前に編集長に相談が必要だと思っています。
2024/11(ん)
24号の愉楽と苦しみ。
文芸同人誌「澪」の第24号では、前回とおなじく、わたしの生まれ故郷である大分県の片田舎を舞台にした小説を掲載した。最近は、ずっと、この生まれ故郷シリーズを書き続けている。単純だといえば単純だが、単純なゆえに、深く掘り下げていけるのではないかという希望的、楽観的な観測がある。自身の故郷を、ぐいぐいと掘り下げて、終いには神話化したのではないかと思わせるくらいの深度を見せつけた作家といえば、やっぱり中上健次だ。さすがに、彼の熊野(新宮、そして路地)に対する没入感を真似するとまではいかないものの、いままでだれも書いたことがない地域について、あえて創作してみる価値はあると思うのだ。たとえば、大分県を舞台にした作家では『九年前の祈り』で芥川賞を受賞した小野正嗣氏がいる。彼の作品は、大分のなかでも港町を舞台にしている。反して、わたしが生まれ育った大分の地に、海はない。あるのは、山と森と田と川。そこに、一定の「レアさ」を勝手に見出して、それを物語化しているんだというモチベーションが、最近の『澪』への意欲につながっている。そのあたりは、楽しんでいる。
ただ、所詮は、中上健次の影を追いかけまわしている、という情けない(切ない)感情も一応、湧いている。いやいや、創作なんて、すべてが模倣だよ、と言われればそれまでだが、完全に割り切っているわけではない。書きたいものが、たまたま土着性のある作品だった、という境地に達していればいいのだが、心のなかでは、中上健次に対する憧れが「真似ろ、真似ろ」とわたしを手招いていると気づいているのだ。
不完全である。わたしの創作は不完全である。でも、その不完全を楽しむ自分もいる。そんな感じで、いろいろと葛藤しながら書き上げた作品が新作『タニの子』だ。
読書中は、ぜひ「タニ」という集落に足を踏み入れてみてほしい。
(衛藤)
ただいま構想中
25号の映画評は「男はつらいよ・寅次郎忘れな草」を準備している。
ご存じ、寅さん映画の白眉だと言える一本についてである。
筆者はシリーズの全作を見ているわけではないが、この作品は印象に残っているので書いてみたくなった。シリーズ後半は主演の渥美清の体調不良や、シリーズを支えていたカメラマンの高羽哲夫が亡くなったために、映画全体に精彩を欠いてしまったので、見るべき価値を失った。拙論は本シリーズが一貫して追い求めている「連帯とはなにか?」という点を自分なりの視点で書けないか?また映画評論家のだれもが触れなかった映像の価値などを中心に書くつもりでいる。
2024/9/29(石渡)
次回作に向けて
映画評論の次回作は溝口健二監督の『近松物語』です。この作品の原作は井原西鶴『好色五人女』や近松門左衛門『大経師昔暦』を下敷きにし、名脚本家の依田義賢が練達の筆で描き上げた作品です。
ストーリーの柱は、京都の大店の若女将香川京子と手代の長谷川一夫の道行、つまり心中を決意するまでの過程を、不条理劇として溝口健二が粘り強く描いた傑作です。
優れた脚本、的を射た俳優の演技、名手宮川一夫の卓抜なモノクロームの撮影設計、巨匠溝口健二の演出などなど、見どころ満載の映画になっています。
脚本や映画を見直しているうちにカミュの不条理について残した言葉を思い出しました。
「不条理という言葉があてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者が、ともに対峙したままの状態なのである。」
評論文としてその点を意識して取り組んでいきたいと思います。
(石渡)
より以前の記事一覧
- 23号の合評会を終えて~小説家の嘆き 2024.04.30
- 22号のエッセー『石渡先生は今何処』について 2023.10.27
- ご報告 2023.07.08
- 只今、構想中(22号へ向けて) 2023.05.03
- 【近況】澪21号(2023年3月発行予定)の原稿を提出 2023.02.18
- 只今、構想中(21号へ向けて) 2022.11.10
- 近況報告(2021年) 2021.12.31



最近のコメント